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Posted by あしたさぬき.JP at

2008年06月03日

激闘!茂原工場(4)

そんなこんなで、実習というよりは、普通に工場で働く日々がはじまった。8時から勤務の場合、10時前に休憩一回。昼休みは1時間。14時過ぎに一回休憩という流れ。2時間弱は立ちっぱなし。一分一秒を大事にしていて、「カイゼン!カイゼン!」なので、とても、「あのー、トイレ行っていいですか?」というような甘えた雰囲気ではない。班長さんからは、

「森田君、右足から取りに行くからだめなんだよ。左足から、こう、そしてこう!」
「なるほど」
「で、戻るときは手に持ったブラウン管に注意して、体を開きつつ、こう。わかった!?」
「はぁ。奥が深いですねー。」

まるで、柔道の形(かた)を教えてもらっている感じだ。慣れてくると自分なりに工夫が出始めて、前工程のブラウン管が流れてくるのに待ちができたら、あらかじめ、綿テープを必要な長さに切っておいておくとか、常にボルトのストックが切れないように注意をしておくとか楽しくなってきた。

昼休み時に、実習生のみんなで食堂に集まってあれこれ情報交換をするが、みんなそれぞれ慣れない仕事で苦労しているらしい。何より、工夫の余地がなくて、ひたすら「運ぶだけ」みたいな現場の連中は、

「いや、ほんま発狂しそうになるぞ。なんぼ送っても送っても次から次に流れてくるんやから・・・」
「ほんまに、たわけが!」
「あぁ、お願いですから、この工場にミサイルかなんか落ちてくれんかなぁ」

かなり重症度が進んでいるな。その点、僕は自分の工程が単純といえば単純だが、まだまだ呑気な範囲だなと思った。

それでも、悩みの種は、目の前の壁に掲げられた時計。腕時計は事故の元なので禁止されていて、全ては壁の時計で進むのだけど、「壊れてるのか?」と疑いたくなるぐらい、針の進むのが遅い。しばらく作業して、「さすがにもう20分は経ったかな?」と思ってみてみるとまだ8分ぐらいしか進んでないとか。

そういえば、チャップリンの映画のモダンタイムスも「ねじ回し」の役柄だったなぁ・・・と、21世紀を前にして、企業の「歯車」になっていく自分をちょっと嘆いてみたりもした。

16時が終業時間なのだけど、もう1時間以上前から、

「分にしたら、あと、65分。ということは、あと、えーと、3,900秒か。」
「分にしたら、あと、61分。ということは、あと、えーと、3,660秒か。」

と、冗談みたいだけど、ほんとに頭の中で考え続けながら手を動かしていた。

「あと、20分。ということは、あと、えーと、1,200秒。」
「あと、16分。ということは、あと、えーと、960秒。」
「あと、9分。ということは、あと、えーと、540秒。」
「あと、4分。ということは、あと、えーと、240秒。」
「あと、58秒、57秒・・・・・・・3秒、2秒、1秒、ゼロ!!どうなっとんや、早くチャイム鳴れ!!!」

ということを毎日やっていた。



が、時たま、

「3秒、2秒、1秒、ゼロ!!どうなっとんや、早くチャイム鳴れ!!!」

と心の中でいつものように叫んでいたら、

「はい、森田君、あと2時間残業~。10分休憩して~」

と無情な班長さんの声がして、ひっくり返ることもあった。



(つづく)


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Posted by kmorita at 13:27Comments(0)日立時代

2008年05月30日

激闘!茂原工場(3)

(書きたいことはあるのに、こんなペースで書いてたら、10年はかかるな)

朝礼にて、簡単に班長から紹介を受ける。

「今日から実習生で入る、公共情報本部の森田君です。みんなよろしくな!」
「おはよございます!森田です。社会人としても人間としても未熟ですが、どうぞよろしくお願いします!」

と、僕が元気よく挨拶した。が、

「・・・・・・・・」

えぇ!空気がものすご冷たいんですけど!!


気を取り直して、いよいよラインに向かう。毎日新しい軍手を手にして向かうらしい。ただ、軍手のままだとブラウン管を落として危ないので、適宜滑り止め用にテーピングをするんだとか。いきなり難しいなぁ・・・。

僕のエリアは三人。ヤンキーっぽい背の高いお兄ちゃんと、職人っぽさがにじみ出ている背の低いおじさん。どうにも二人とも口数少なそうだ。

班長さんに手順を教えてもらう。

前の工程から送られてきたブラウン管に、綿テープを巻いて、巻いたところに留め金を二個つける。留め金一個につき、ボルトとナットが二個ずつ。これで締め上げる。ふむふむ。

まずは作業台の上に、一度に二個ブラウン管を持ってきて置く。「う・・・。」けっこう重い。と思ったら一番壁際のお兄ちゃんは24インチぐらいの持ってるじゃないか!僕といえば一番小さい15インチ。

置いたらば、綿テープをブラウン管の首にぐるぐる巻いていく。

「ああああ!違う違う。テープの端は水平に、水平に!」
「は、はい。」
「あー、あー、あー、違う違う。そこまで巻いたら巻きすぎ!」
「は、はい。」

難しいもんだ。続いて、留め金の取り付け。電動のねじ回しで締める。これは父の道具にもあったので簡単だ。

「ああああ!違う違う!そんな高速でやったらねじ山がなくなる!」
「は、はい。」
「おいおいおいおい!そんな締めすぎたら、ブラウン管が爆発する!!」
「は、はい。」

とほほであるが、初めてのことなので加減がわからん。

「まぁ、森田君よ、慣れてくださいよ!ははははは。」

班長さんは笑いながら去っていった。まいったなぁ。ひとりになってもいろいろ質問したいことがたまってきたので、真ん中で作業している、僕の背面のおじさんに質問してみた。

「あのぉ、この色のも同じ割合でいいんですかね?」
「・・・・・・・。」
「ですよね。」
「・・・・・それで、いいっぺ。」

なんとも口数少ないおじさんだ・・・。この状態で三ヶ月はかなりきついなぁ。しかも、千葉の方言がかなり混じってそうで、こりゃぁまいったぞ。

そんな実習がスタートした。



(つづく)


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Posted by kmorita at 14:00Comments(2)日立時代

2008年05月26日

激闘!茂原工場(2)

生まれてはじめて、茂原というところにやってきました。JRの駅を降り立ってみると、まずまず建物は多い。デパートのソゴウもある。パチンコ屋もある。いろんな安心感を胸に、歩いていける茂原工場の寮へ。

着いて、入寮に対する各種説明。

・食堂は24時間(!)
・部屋は四人部屋(!)、二段ベッド(!)
・一番勤務は8時出社(!)、二番勤務は16時出社、三番勤務は0時出社(!!!)

いろいろビックリすることばかり。こりゃぁしばらく地獄を楽しむ覚悟が必要だなと腹をくくる。また、ある程度実習生はまとまって配属になるのかと思っていたら、全員ほぼバラバラらしい。なので、いきなり0時出社のやつとか出て、「さいあくー!!」との声があちこちで。僕は一番勤務、8時出社からスタートになった。

いよいよ初実習。工場に早めに出向くと、僕の配属先の班長さんが出迎えてくれた。全部で僕を入れて24人の班。班長さん3人で3つの班、ひとつの工程を3交代で担当しているわけだ。7時50分から朝礼でそれまで待機所で待っててくれとのこと。入ってみると、「むむむ」というなんだかどよーんとした空気。眼光鋭いおじさんや、お兄さんがうじゃうじゃたむろしている。みんな、僕のほうをちらちら見るが、決して受け入れてくれてないように思える・・・。

やっていけるんだろうか・・・。


(つづく)


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Posted by kmorita at 15:11Comments(0)日立時代

2008年05月20日

激闘!茂原工場(1)

いよいよ、千葉県は茂原市にある、日立が誇るブラウン管工場、茂原工場に工場実習に行く日が近づいてきました。うわさが噂を呼び、「生きて帰ってこれるのか?」「体育会系どころじゃないようだ。」「夜中の3時に昼ごはんを食べるらしい」など気が滅入る話ばかり。各人、制服と制帽、それに安全靴が支給されます。その中でも「白い安全靴」は検査工程に近いらしくて、まだまし。「黒い安全靴」は炉の近くで熱い(暑いじゃないですよ)とか、重いとか、とにかくヘビー級の環境だとのこと。僕は残念ながら「黒い安全靴」でした。履歴書に誇らしげに「柔道二段」などと書いたことを何度も後悔しました。

まだ大学生の彼女が住んでいるのは京都。つまり東京から1時間半以上かかる茂原に行くということはさらに遠くなるわけで、僕の落ち込みようは相当なものでした。出発の日まで毎日のように電話をしていたのですが、寮にあるのは公衆電話。遠距離恋愛派は100人の寮の同期の中で8人ほど。その8人が毎日二台しかない電話のとりあいです。

「おい、そろそろかわってくれよ」
「(もうちょっと待てよ)」
「はよしてくれんと、彼女が寝てしまうがー!」

電話だけでは埋められない思った僕は毎日、毎日手紙を書きました。普通、手紙って返事が来たらそれを受けてまた書くものですが、返事が来る前にどんどん書きました。この後、僕は半年ほど東京にいることになるのですが、その数100通近く。結婚した今も、かみさんはどこかに持っているようで、なんともそれはそれで恐怖。

そんなこんなで茂原工場に出発する日がやってきました。


(つづく)


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Posted by kmorita at 17:49Comments(0)日立時代

2008年05月16日

僕の上京物語(3)

入社してしばらくは事業部全体での研修が続きます。二子玉川の臨時に借りた部屋で、当たり障りの無い、眠くてどうしようもない研修。講師が現場の部長代理(課長みたいなもの)だったり、主任クラスだったりするのですが、どうにも準備不足が見えてしまう。それでも真面目な我々はなんとか二週間を乗り切ったわけです。なんといっても、同じ事業部の新入社員が200人いて、その4人に一人は女性。嫌でも多少浮かれます。

しかし研修中、衝撃的な事実を知ることになります。なんと、4月の最終週から6月いっぱいまでは、工場実習といって、日立の各工場にバラバラに配属され、ラインの作業を実習するのだと。話だけ聞くとインターンかなにかのようなものと思うかもしれません。僕らもそう思ってました。それにしても、新人を 3ヶ月も本来の配属とは関係の無い工場に、「日立精神」を学ぶために預けるとは、なんという余裕。今では考えられませんね。

合同の研修の最終日に派遣先の工場が発表されました。日立工場をはじめ、日立が誇る大工場に、ほぼ五十音順に配属されていきます。が、なんだか数名、飛ばされているような・・・。しかも、ごつい連中ばっかり・・・。で、最後に、「茂原工場、XXさん、XXさん・・・・森田さん。以上。」と、どー見ても、武闘派ばっかり。国体選手や武道の有段者揃い。人事の担当者もなぜか半笑い。茂原工場組が担当者に詰め寄ります。

「どーいうことなんです?」
「うーん。まぁ、茂原工場は元気が無いといけないんですよ。」
「それって、どういうことなんですか?」
「うーん、ブラウン管工場なんだけど、重いと言うか、熱いと言うか、眠いと言うか」

話を総合すると、茂原工場は、ブラウン管工場で、24時間操業。工程によっては、重いブラウン管を運んだり、熱源の近くで作業したり。しかも3交代制で、実習生もその3交代制に組み込まれるということ。逆境、しかもそれが少数派なら大歓迎の僕は心の中で「おもろいやん」と感じていたのだが、そんな甘い考えは露と消えることになるのです。

(つづく)


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Posted by kmorita at 08:56Comments(0)日立時代

2008年05月15日

僕の上京物語(2)

入社の日がやってきました。着慣れないグレー、紺のスーツの面々が、100人以上ほぼ同時に寮を出て、会場であるヒルトン東京ベイ(ドラマではホテルオラトンで有名)に向かいます。隣接している、コンベンションホールでその年の入社式は行われたのです。駅に着くと既に長蛇の列・・・。話では、院卒、大卒、高専卒で2,700人だとか。新聞報道よりも数字が多いです。

我々「ファコム・ハイタック株式会社」で内定を受けたものは、別枠になっており、「ファコム・ハイタック株式会社」の黄色い封筒を持って、指定された席に着席します。200人。ちなみに、「ファコム・ハイタック株式会社」では、富士通の「青」、日立の「黄」をより強調して使っていたようですね。すべてのものが黄色っぽいということが入ってから分かりました。始まるまでにはかなり時間があったのですが、全員が着席するまでには30分以上かかりました。しかもウルサイ。それでも始まる前には静かになるのですから、日本の軍隊的教育の刷り込みはさすがですね。アメリカではこうはいかないでしょう。

式は進んで、当時の社長の式辞が始まりました。大ホールの席からは、なんというか、ほんま顔の表情さえ見えません。蟻んこみたい!結局、生で社長の顔を見たのはこれが僕の日立時代では最初で最後でした。平社員からは10階級ぐらい上になるお方なのですが、その差以上を僕は今後感じることになります。

山のようにいる役員紹介があって、その後、「世界不思議発見」のスポンサーだったので、黒柳徹子さん他からビデオレターが届きます。ここが一番盛り上がりました。その後も延々と説明などが続き、やっと昼ごはん。弁当なんですけど、これが大変。弁当を取りに行って戻ってくるだけで小一時間かかる・・・。大渋滞。

と、ロビーでうろうろしていると、大学時代、僕が所属していたサークルを「女が少ない」という理由で一ヶ月で辞めた友人Tの顔が。「なんでお前がおんねん」とお互いがびっくり。そうこうしていると、なんと高校時代の同級生の女性、Hさんも発見。「え?なんで?」・・・・。2,700人も同期がいると、旧友もけっこう混じるのですね。

その後、所属がはっきり決まっている我々以外は配属部署が発表!数日分のホテルで泊まれる荷物だけで来てるらしく、いきなり遠地に飛ぶもの、思いと全然違う仕事に着くものと、初日からけっこうドラマ。僕たちも正式な部署名が判明した。公共情報本部、略して「公情本」。日立ではなんでも略すんだとか。略すといってもこれは正式に決まっている略称で、勝手に略してはいけない。しかも、丸で囲むことで、「敬意ある略」となるのだ。

そんなこんなの一日だったんだけど、各地に散らばっていく多くの二度と会わないであろう同期を横目に(実際、友人Tと、高校同級生Hさんは同じ部署という超偶然があったにもかかわらず、僕はその後彼らに会っていない・・・。)、「公情本」の面々はまた寮に戻っていくのでした。

が、会場から出るだけで、また一時間近くかかるのでした・・・・。大変。

(つづく)


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Posted by kmorita at 11:09Comments(3)日立時代

2008年05月14日

僕の上京物語(1)

さて、株式会社日立製作所への入社日が迫ってきました。ぼーっとしていたら大量の入社前説明資料が。引越しは3月29日ということで。実家に段ボールが先行して届きまして、これに詰めろと。「日立物流」と書かれています。布団とベッドとテレビと段ボール4箱。なんとわずかな・・・。

寮に入るのですが、二人部屋。8畳間(和室)を二人で使います。畳の間にベッドはどうよと思うのですが、少しでも空間を有効に活用する必要があるので持って行きます。部屋の相棒が偶然、同じ大学の同じ学部の知人だったのでシェアするものを事前相談。この時代に二人部屋かよぉという気持ちは消えないのですが、社会人のスタートとはこういうものなんだろうとあきらめます。寮に入らずにすむほどの金はないですからね。

いよいよ引越し。いわゆる、「上京」というやつです。いろんな地方出身者が東京に集まってくる構図は「集団就職」の時代と変わらんなぁという思いをいだきつつ、荷物は先に会社がチャーターしたトラックが持っていきました。僕は新幹線で東京に向かいました。携帯もない時代でしたので、彼女に「今から行きますね」と駅の公衆電話から連絡を入れます。

蒲田から東急に乗り換え、矢口渡(やぐちのわたし)という駅が最寄り駅。着いてみると僕と同じ立場のそれっぽい人間が何人か同時に降ります。それぞれ意識しつつも地図を片手にそれぞれ寮へ。

寮自体は新しく快適そうな概観。何台か車やバイクが停まっていて、これは社員のものだろうかなど想像しつつ中へ。やっぱり最初はR大出身者6名ほどでグループを形成してしまいます。僕の場合は大学時代でもかなり仲の良かった友人や部屋の相棒もR大出身だったりで、寮生活スタート時から、なんだか賑やかな出だし。賑やかなことが何より好きな僕はけっこう満足。

ただ、部屋にモノを置いてみて、その狭さと、どんなに仲がよくても共にひとつの部屋に生息するという環境にはやっぱり不安を感じるのでした。周辺も100人ほどの同期の人間(しかも男ばっかり!)がいて、風呂も食堂も洗濯場も共有。うーむ。耐えられるだろうか。

(つづく)


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Posted by kmorita at 22:49Comments(0)日立時代

2008年05月13日

僕の就職活動(5)

ファコム・ハイタック株式会社に内定して喜んでいたのに、平凡な(失礼!)株式会社日立製作所への入社手続きが進む。大学の就職課に出向いて進路決定先の届出を出した。聞けば日立には30人以上進むんだとか。なんだそれ。マイナー志向の僕がこんな就職するとは・・・。新聞報道を見ると日立の採用数は企業の中でも最大の域で、大卒、院卒だけで2,500人を超えるのだとか・・・。

余談だが僕は高校時代に2回パソコンを買った。当時は貧乏だったのでアルバイトをして親に借金を返しつつだったのだけど、1台目はシャープのMZ- 1500。クイックディスクというのが付いたパソコンで、僕はその先進性に普及機の疑いを持たなかったんだけど、シャープの大量宣伝広告費にも関わらず、その後消えていった。2台目は、富士通のFM-New7。名機FM-7の安価モデルチェンジ版。既にFM-77AVとか先を行ってる機種もあったんだけど、金もないのでこの辺で手を売った。が、その後のNECとの争いに負けて、FMシリーズもアダルトゲーム以外では劣勢を強いられる・・・。まぁ、僕は車も含めてマイナー路線を歩んでいるわけだ。セガサターンも買ったことあったな。

で、いよいよメジャー日立への入社が見えてきた。愛機FMシリーズ(タモリCM出演)の富士通ではなく、何の因果かゴクミのH1の日立。ちなみに、 NECは武田鉄矢だったのが、途中で売れ出してから斉藤由貴へ。FMシリーズも南野陽子で反撃に出たんだけどなぁ。

ファコム・ハイタック株式会社の残骸と言うか、すぐにはALL日立の仲間入りってわけでもないようで、大阪の淀屋橋の日立の関西支社で行われた健康診断以外はほとんど製作所とは別行動。寮も独自の寮だと。当面は、九段下の事業所に通い、半年以上の研修が始まる。

僕は一度香川の実家に帰って、荷物を整え、東京に上京することになる。当時既に僕は今のかみさんと付き合っていて、今後始まる遠距離に寂しさもひとしおだった。カラオケに行って、「なごり雪」やオフコースの「さよなら」などを歌うと涙が出たものだ。そうそう、例の「いちご白書をもう一度」もいいねぇ。自分の電話というものさえなくなる寮生活。しかも大貧乏!彼女は実家で集めてきたいろんなテレホンカードを山のようにくれたのでした(どっかのおっさんのホールインワン記念とか)。


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Posted by kmorita at 13:38Comments(2)なんとなく

2008年05月12日

僕の就職活動(4)

内定式から一ヵ月後の1991年10月31日。なぜだか東京の某所に内定者が全員呼ばれた。通知らしきものは内定式で終わったし、入社まではまだまだたっぷり時間があるのに、なんだろう?とR大での内定者集まって相談。わけわからんやつらが集まってもなんもわからん。たぶん、なんかまた内定者縛りみたいなもんだろうと当日を迎える。

京都駅で新幹線に乗り込んだファコム・ハイタック株式会社R大内定者数名。同じ学部のY君が駅のホームで買った日経の5面ぐらいの見出しを見て、一同、驚愕。

「ファコム・ハイタック株式会社、発展的解散。」

えー!?

え、えー!?

発展的解散?発展的とはいえ、解散は解散。って、発展的って何?一ヶ月前のあのニコニコ顔の内定式はなんだったのよと。詳細読むも、まぁ、時代の要請が終わったとかなんとか、よく分からんことしか書いていない。うーん、内定した会社が解散かぁ。

新幹線の一部のリクルートスーツの数名が異様な盛り上がりを見せつつ、東京駅へ。会場のホテルに着くと、これまた興奮状態。しかしまぁ、天下の日立と富士通。恥ずかしいようなことはやるまいよ、とみんなそれなりに平静を装う。バブル世代の余裕と言うやつでしょうか。僕は母親に言ったものだった。「日立がつぶれるような事はないよ。日立がつぶれる様な時代が来たら、もうそれこそ、日本中終わってるからどこの会社にいても同じだって。」けど、まさか入る前に振り回されるとはなぁ。つーか、この時が僕の保守性のピークだな。今こうして振り返っていると同じ自分かと不思議だ。大学時代に、かなり左派的な感覚も学内にまだ充満していたので、けっこう反体制的な気持ちもあったのだけど、「就職が決まって髪を切ってきた時もう若くないさと君ははしゃいでいたね」の「いちご白書をもう一度」を地でいくとはなぁ。

会社側から説明。まぁ、筋だって聞けばなんの問題もない。株式会社日立製作所への内定に代わるだけだ。配布資料と数分の説明で理解できる。が、理解できないやつも多いんだな。念のための念のための念を押して聞くような質問をしている。新事業部ができて、全員そこに入るのだ。やる仕事は一緒。残って会社の担当者にあれこれ追加で質問してるのもいたが、僕らは早々に引き上げる。

正直、ちょっと残念だった。親や周囲に就職先の説明をするのは簡単になったけど、特別なミッションを帯びた会社に就職するような高揚感があったのに。残念だ。急に普通のサラリーマンになるんだなと感じ始めた。僕はJICAや宇宙開発事業団のようなところを最初就職先に考えていただけに、平凡になるのがちょっと嫌だった。

が、この解散したファコム・ハイタック株式会社の帯びたミッションが別のところであって、それ自身はまだまだ続くってことはかなり後で知ることになる。僕はまだ「日立」ってところにピンと来てなくて、そもそも前株か後株かもよく分からず、かつ、「日立制作所」と書きかねない状況だった。アブね。


(つづく)


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Posted by kmorita at 10:57Comments(0)なんとなく

2008年05月10日

僕の就職活動(3)

ファコム・ハイタック株式会社に面接に行くことがほぼ決まる。僕はまだこの会社が何の会社なのかほとんどわかっていなかったのだけど、面接という類には変に自信があったので、気楽な気持ちで東京に向かった。他に2名同タイミングでR大学から受ける。3名が先輩との待ち合わせ場所に向かい、まずは控え室のようなところで模擬面接を。ここで僕はひどく緊張してしまったようで、練習してくれた先輩も途中から首をひねる始末。むむむ。やばい。お昼を食べたのだけど、なんとなく僕の周囲だけ重い雰囲気。

さて、本番の面接。けっこう開き直った僕はサークルのことや、第三世界を旅して回ったこと、登山に熱中したことなど、まるで「コンピュータ」とは関係ない話題を話しまくる。だって、まだコンピュータを事業とする会社に入る気がしていなかったんですよ・・・ほんまに。単に、「大日立」の一角のなんだかちょっと違う怪しいセクションに「選ばれて」入るというような気持ちだったのです。

本番に強いのか、そつなく面接終了。心配していた先輩方も僕の晴れ晴れしい顔を見てほっとした様子。実はこの時点で面接を受けていた連中はよほど問題ない限り、ほとんど内定していたとのこと。まぁ、バブル入社ここに極まれりですね。最終的に、200人が入社することになるのだけど、内定者が何人だったかは不明。

さて、一週間ほどで内定の案内があった。僕のあっけない就職活動が終わったわけだが、それから何度か先輩方に呼び出しを受けて、居酒屋やホテルのレストランでご馳走になる。東京でも「こんなに旨い物は食べたことが無い」というぐらい貧乏学生の目が丸くなるような料理をいただく。形だけの就職活動は親を喜ばせるような意味合いで香川で続けたりしたが、もう行く気も無く、僕は大学後半はカナダに行ったり、山歩きを楽しんだりの日々を満喫する。

内定日である、1991年10月1日。東京の某所のホテルで、約200人の内定式。ファコム・ハイタック株式会社であるはずだけど、富士通系の内定者は別の場所だと。僕はちょっと富士通系の内定者と会えるのを楽しみにしていたんだけどな。この頃になると、ファコム・ハイタック株式会社が、富士通と建物は同じだけど、違う階で働いていることや、地方ではひとつのフロアを共有していること。そこまで同じ会社を装っているのに、なぜかビジネスでは競合していることなどを知る。不思議だ・・・。

が、不思議な想いもその辺まで。僕は内定式から一ヵ月後、驚愕することになる。


(つづく)



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Posted by kmorita at 17:15Comments(0)なんとなく

2008年05月09日

僕の就職活動(2)

(前回とかぶる部分ありますが。)

ある日、なんだかよくわからない、「ファコム・ハイタック株式会社」というところから黄色のDMが届いていたので封を開けてみると、中身は日立製作所っぽいことを書き連ねつつ、ばら色の社会人生活が描かれている。当時は「課長・島耕作」ぐらいでしか電機業界のことは知らなかったんだけど、その「ファコム・ハイタック株式会社」の入社案内には「日本の未来を作る!」ような謳い文句で、

・宇宙ステーション計画
・南極の観測
・遺伝子の解明

などが書かれており、僕は「なんだか凄い!」と思ってしまったのだ。「システムエンジニア」というのもよく分かっておらず、「この会社に入ると、国家プロジェクトの一翼を担って、世界をまたに駆けるに違いない!」と興奮したことを覚えている。さっそくハガキを出してみると、早々に「大学の先輩」なる方から電話が入った。妙になれなれしい。これがリクルーターというやつか。他に何名かR大学から応募があったので、一緒に会おうと言うことになる。なんとその中には同じサークルの友人もいたりしてびっくりすることになるのだけど。

京都駅の近くのホテルで待ち合わせ。こっちは4人。相手は若い先輩2人に、管理職クラスのような先輩が1人。緊張しまくりの僕らに対して、先輩方は「わが後輩たちよ!」のようなテンションで接してくる。「ファコム・ハイタック株式会社」では、一定人数のR大学出身者がいるようで、このおじさん先輩がリーダー格のようだ。いろいろ質問してみるが、核心臭いことは遠慮して言えないのが常。所属は「ファコム・ハイタック株式会社」という、富士通との合弁会社なのだけど、実態は日立製作所の社員なんだ、というようなことは理解できた。先輩たちはそういう話よりも、「いかにすれば面接(いきなり最終)を突破できるか。」のノウハウ授与に頑張ってくれていたように思う。

結局、僕はこの時点でも「ファコム・ハイタック株式会社」が何をしている会社で、富士通と日立の関係がどうで、そもそも僕がそこで何をするのかも、よく分かっていなかった。何より日立とコンピュータというのが、もうひとつ結びつかない。親には、「なんだか凄い会社なんだよ。普通の日立とは違うんだ。なんか、国の重要な事項を任されて仕事をするような、とても日本にとって重要な任務を背負った会社らしいんだ!」と力説していた。選び抜かれたエキスパート集団で、「宇宙開発事業団」のちょっと民間寄り、かつでかいコンピュータ使う・・・。そんな感じで説明した。かなり誤解していたわけだが、この時点ではそんなもの。電話で語気を荒げる僕に、父は、

「パナファコム入るんか。それは良かった」

と言って電話を切られた。違うんですけど。

(つづく)



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Posted by kmorita at 13:04Comments(0)なんとなく

2008年05月08日

僕の就職活動(1)

僕をよく知ってる人は聞き飽きた内容かもしれませんが、大学で就職活動をする時に、なんとなく大企業志向、ブランド志向がありました。バブル絶頂時期ってこともあって周囲の友人知人、学校違う旧友たちもみんな同じでした。大学の四回生になる、1991年の春のことです。

ネット検索やネットエントリーはありませんでしたから、情報は大学の就職課に出向いて、膨大な資料の中からこれというところをピックアップして調査開始します。僕はあまり積極派じゃなかったのでかなり出遅れていたんでしょうけど、それでも何度か足を運んでは資料を漁りました。ただ、あんまり面白くないなぁという思いが強くて、ついつい夢があるような企業の情報ばかりを読みふける日々。例えば、宇宙開発事業団とか、国際協力事業団とか。宇宙開発事業団の資本金の欄が、「11兆円」になっててビックリしたのを憶えています。

そんなおっとりと就職活動を始めた僕ですが、当時は個人情報保護なんて関係ない時代だったんですねぇ。毎日毎日、「もう送ってくるなよ!」っていうぐらい企業やら就職情報会社からものすごい量の資料が送られてきていました。ある日、学校に行こうと入り口のドアを開けようとしたら「開かない」。なんだろうと思って渾身の力で開けてみると、ダンボール二個分の資料が到着していました。郵便屋さん、大変やなぁ・・・。

そんな資料の中に、「宇宙ステーションを共に!」「南極観測のサポート!」などといった夢のようなせりふが踊っているパンフの会社がありました。しかも東京までの交通費を初回から全額出してくれるという・・・。これはすごい。と思って、僕はその会社に資料請求を出してみることにしました。

(つづく)


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Posted by kmorita at 17:22Comments(0)なんとなく

2008年05月07日

なかなか書けないですね~

放浪編なら書きまくれるかなと思ったんですが、なかなか書けないものですね(苦笑)。

そういう気分になかなかならないのです。昔のことより未来志向に気分が移ってるのかな。

放浪編は、

韓国ステージ
ギリシャステージ
エジプトステージ
トルコステージ
ソ連ステージ
モーリシャスステージ
マダガスカルステージ
コモロステージ
ケニア・タンザニアステージ

などを予定していたんですが、なんだか筆が進みそうにないので、しばらく中断しますね。

しばらくは、気が向いた時に、下記の本家のブログとは違った切り口で、今、そして未来のことをあれこれ試行錯誤するノートとして活用してみたいと思います。


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Posted by kmorita at 21:29Comments(0)番外

2008年04月11日

釜山の夜は更けていく

屋台で、その美味そうな香りの貝とイカを注文。他にもなんかわからんままに、隣のおっちゃんが食べているご飯モノとビールも。僕らの最初の異国の夜だ。

「かんぱーい」

とビールを喉に流し込む。七輪みたいなんの上にアルミ箔を敷いて、豪快におばちゃんが焼いていく。これは食欲そそるなぁ!

で、食べごろだと言うのでパクつく。

「XXXXXXX!!!!!!!]

これまでに経験したことのない辛さだ!!!凄まじい!!あわててビールを飲むが収拾がつかん。

「おばちゃん!ビール!!おかわり!!大至急!!」

げらげら笑いながら、おばちゃんはビールをじゃんじゃん持ってくる。たくさんビールを飲ませるための作戦じゃないかと言うぐらい激辛料理を頼んでしまったようだ。そばにあった生たまねぎをかじってみると、ものすご甘い。キムチさえ甘い。料理が辛すぎ。衝撃的だ。

それでも僕らは満足して呑みすぎたビールでふらふらになりながらホテルへ戻った。相変わらず、ホテルのおばちゃんは含み笑い。

さて、風呂に入ろうとしてみてびっくり!!なんとマジックミラーみたいになっていて、風呂の電灯をつけると部屋から丸見えではないか!!!

やっと僕達はこのホテルが「ラブホ」だってことに気がついた。温泉で男同士で入るのは慣れている僕らも、この状況はキツ。いやはや。

とはいえ、激辛料理で汗もかいているのでとにかく気にしないこととして交代で風呂に入った。これも貴重な経験だ。

さて、まぁ布団は二組あるからそこは安心して変な気ももちろんおこさず、寝ることとした。

「いやぁ、まいったねぇ」
「ほんまに。でも安いんやけん文句言えんな。」
「そやね。じゃぁ、電気消すでー。」
「はいよー。」



パチン。






「なんじゃこりゃー!!!!」



電灯スイッチを消したところ、部屋はピンク色の電球に照らされてムード満点になってしまった。





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2008年04月08日

微笑するおばちゃん

「ラブホ」と知らず、部屋に入った我々。どことなく暗いなぁと思いつつもとにかく疲れていたので重い荷物を降ろしてしゃがみこむ。やがておばちゃんがやってきた。

(韓国語で)「おちゃどうぞー」
(英語で)「あ、ありがとうございます。」
(韓国語で)「それにしても、ねぇ(笑)」
(日本語で)「はぁ?」
(韓国語で)「ねぇ(笑) ふふふふ(笑)」

おばちゃんの謎の微笑がよくわからないまま、僕達は外に出て市場に向かって歩いてみた。初めての異国の夕方はなんとなくいい感じだ。そのまま海の方に向かって歩いて、屋台が並んでいる通りに出た。そろそろ腹が減ってきたのでちょっと早いけど、何か食べてみることに。一軒の屋台をのぞいてみると、貝か何かを焼いている。うん、これにしよう。



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2008年04月03日

釜山の宿、決定

結論から言うと、HOTELの看板の上の「温泉マーク」は特に意味はなくて、宿泊施設を意味するのだけど、入ったホテルは男が二人で入るには「普通」ではなかった。

日本人というものは日本語が通じないとなると、相手が韓国人でも中国人でも、おばちゃんでもおじいちゃんでも「英語」が出てしまう。

(英語で)「あのー、今晩ここで泊まりたいんですが?」
(韓国語で)「はぁ?」
(英語で)「ここで。泊まりたいんです。一晩いくらですか?」
(韓国語で)「なんかへんなのがきたで。ちょっとー、おとうさん!でてきてー!」
(韓国語で)「どしたんや。お客さんかい?」
(韓国語で)「どうやら、日本人みたいなんやけど・・・」
(韓国語で)「え!男二人でかい?!」
(英語で)「で、いくらなんでしょうか?」
(韓国語で)「めんどうやなぁ。まぁ、かまんといえばかまんけどなぁ・・・」
(英語で)「で、いくらなんでしょうか?」
(韓国語で)「おとうさん、値段きいてるんちゃう?」
(韓国語で)「えーと、XXXウォンやけど」
(英語で)「すんません。書いてもらえませんか・・・」
(韓国語で)「めんどいなぁ・・・」
(日本語で)「おぉ!安いやんけ!ここにしよ。」
(英語で)「では、泊まります。お願いします」
(韓国語で)「うわ。やっぱり泊まる気や・・・・。まぁええけど・・・。男どうしかぁー。なるほどなー。」


僕らはまだ気づいてなかったんだけど、僕たちが最初に泊まったホテルはいわゆる「ラブホ」だったのだった・・・・。



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2008年04月02日

釜山の宿探し

釜山に無事ついた我々。だが、慣れない船旅で疲れており、慣れない大荷物にくたびれているのでとにかくどこに行くにせよこのザックをどこかに置きたい!

しばらく港で作戦を練った後、地下街へ。よく見ると見慣れたファストフード屋が。

「あ!ロッテリアがある!」
「ほんまや~」

異国にまだおびえている我々は安心システムのロッテリアで腹ごしらえ。指差すだけで注文できるもんね。

で、まぁ、コインロッカーみたいなものも見当たらず、うろうろするのも時間の無駄なので、早めの宿を決めることとした。あてはないが、地球の歩き方に載っている観光客も多い市場に行けば誰か安い宿を教えてくれるだろう。

ちょっと坂を歩いて、ふらふらと市場へ。が、重い荷物のせいで歩みはのろい。

市場まではまだかなりありそうだったが、ふと裏通りを見てみると

「HOTEL」

の文字が。

「なんや。このへんたくさんホテルあるでないか」
「ほんまや、ほんまや」
「もう限界や。Mよ、あのへんで宿決めよや」
「そやな」

我々はそのホテルのひとつに価格を確認するため入っていった。





HOTELの看板の上の「温泉マーク」を特に気もせず・・・・。


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2008年04月01日

釜山港へいけ

いざ早朝は高松駅の4時台のマリンライナーに乗った我々。そこから岡山、三原、広島、岩国と延々とローカル電車を乗り継いで下関を目指す。乗り継ぎの悪い駅ではホームの立ち食いうどん。下関に着いたときにはもう昼を過ぎていた(と思う)。

関釜フェリー乗り場に着いたのはいいが、すでにくたくた。乗船受付を待っていると大きな風呂敷を背負ったおばちゃん達がわんさかやってきた。これがいわゆる「運び屋さん」という、まぁ、小さな貿易なんだろうか。

外洋を行くフェリーはかなりでかく、僕達はのんびり船旅を楽しんだ。といっても暇なので、とにかく麦酒を呑みに飲んで寝ることにした。

どれぐらい寝ただろうか?気がつくとフェリーが泊まっている。どうやらもう釜山港に着いているらしく、税関が開く朝まで港の中で停泊しているようだ。僕は窓から外をのぞいてみた。はじめてみる異国の灯りはなんだか幻想的で、このまま二度寝するのが惜しい気がした。起きていた友人Mとしばし歓談。

「韓国ってやっぱり船下りたときからなんとなくキムチのにおいがするんかな」
「そんなわけないやん」
「けど、みんながみんな毎食食べてるんやぞ。」
「じゃぁ、あれか。新京極の漬物屋の前とおったときみたいな香りがするんか?」
「するんちゃう」
「なあほなー」




次の日、船をおりるときにびっくりした。友人Mの予想通り、街全体がキムチのにおいに包まれていたのだ。



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2008年03月31日

目的地は韓国

全然旅行記になってないなぁ。まぁいいや。

そんなこんなである程度資金がたまってはパチンコで減って、またエキストラで増えての繰り返し。それでも二回生の夏休みまでには近場なら出かけられそうになった。さて、どこに出かけるか。アメリカやヨーロッパに行くほどの金はない。かといって、グアムやサイパンでは意味がない。マニラやバンコク、香港も頭をよぎるが、航空券代がもったいない。

当時、船でいけるのは、鑑真号が出ている「上海」か、ソ連の「ナホトカ」、それと関釜フェリーの「釜山」ぐらいだった。中国はまだまだ何かとハードルが高かったし、ナホトカはそれ以上なので、ここは安パイよろしく、釜山に渡って韓国を旅することにした。相棒は高校時代の同級生友人M。

パスポートを取得し、心斎橋の韓国領事館でビザを取得。当時はまだ短期滞在でもビザが必要だった。お金がなかったので高松から下関の往復は青春18切符とした。地球の歩き方の韓国編を購入し、入念に計画。この計画をしている時が一番楽しいんだわな。

さて、僕と友人Mは40リットルのザックに厳選した荷物を詰め込んで、いよいよ韓国に旅立つこととなった。韓国は前年にオリンピックを開催したばかり。経済発展著しい韓国を僕らは肌で味わうことになる。


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2008年03月30日

旅行資金をためる日々(3)

催し物の深夜片付けにも懲り懲りになった僕は、京都の学生らしく、時代劇のエキストラに挑むことになった。最初に出かけたのは、正月時代劇の「義経」。義経役は、少年隊の東山紀之。脇を固める俳優人も一流揃いで、エキストラながら気合が入る。

東映の俳優会館で着替えさせられるのだが、下半身は予算不足で「ジャージ」。顔は一応どうらんを塗られるがかなりいい加減。カツラもかなりの年代モノで臭い。エキストラ総数100人近い大ロケだ!我々はそれぞれに弓矢や槍を持たされて、マイクロバスに詰められ、愛宕山の奥の林道へ。なんと言っても「ひがし」との共演だ。京都駅からはかなりの距離のはずなのに、タクシーを借り切って「ひがし」のおっかけが林道まで来ていた。

着いたところは深い森。わずかに開けたところで降ろされ、早めの弁当。炊き出しの味噌汁もいただく。実際まだ働いてないんだけど、かなり時間は経っている。テレビで見たことある俳優さん達と同じ飯を食うのはなかなか楽しい。

で、いよいよ我々の出番が来た。

「はーい!義経隊作りますんで、並んでくださーい!」

なるほど、僕は義経隊の一人なんだな。やっとわかった。と、我々の横を颯爽と馬が走り去る。馬上には千葉真一ではなく、東山紀之!!かっこいい!!!

エキストラ一同、エキストラのはずなのに、我が大将の登場に俄然盛り上がる!下半身はジャージだけど(笑)。

「おぉー!」(義経隊)

「今日は元気そうなメンバーだな!」(ひがし)
「うわ!はなしかけてくれたぞ!」(義経隊)

「大変だけど、いいドラマにしましょう」(ひがし)
「はい!!」(義経隊)

そこから義経(ひがし)は役に入って、低い声で我々を鼓舞した!

「ものども、参るぞ!」(ひがし)
「参りましょうぞ!!」(義経隊)







ただ、そこから4時間に渡って、延々とただ歩き回るとはさすがに想像できなかった・・・。我らが大将の義経(ひがし)は、最初のシーンだけとってさっさと山をおりて、後に残された我ら下っ端の義経隊は林道を何度も何度もあらゆる角度から撮影され、NGを出され・・・・。

朝7時集合が、映画村に帰ったのは夜の21時だった。それでも、他のバイトに比べれば、「話のタネになる」ということで僕はこの後も何度もエキストラをすることになる。







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